日々の恨みつらみと発見と日常のめも

外に

ちょうど前回の文を書いたその日ぐらいから恋人と連絡が取れなくなり先日お別れをした。

やっぱり不幸をぶちまけて私の幸せを委ねすぎてしまったのがよくなかったらしい。

悲しい。

こうやって一人になっていくのかと思ってもうとにかく絶望した。

 

自分なりにがんばろうと、幸せになろうとしてたけど、たまに出てしまう鬱のボロが私からみんなを遠ざける。

みんな楽しい人が好きだし、面白い人が好きだ。

 

私もそう。だからあの人と一緒に居たかった。

その人といたら、自分も良い方向に変わっていける予感がしたから。でも向こうは苦しかったらしい。今まで全然気が付かなかったのは、向こうの気遣いと優しさのおかげなんだろう。

 

お別れしてとにかく絶望に浸ってたけどこんなんじゃダメだってわかってるから、幸せになりたくて楽しくなりたくてもがいてみてる。

 

いろんな人と会ってみたし、新しいところにも行ったし、買って読んでなかった本を読み、ライブにも行き、曲を作ろうとしたりもしている。

 

実家でご飯が食べられて、大学にも行けて、バイトもできるし、魅力的な友だちもいて遊んでくれる。好きな音楽やファッションがあるし、好きな人たちがたくさんいる。

すごく幸せな状況のはず。

 

それなのに、幸せな状況のはずなのに、相変わらず私は苦しんでいる。

何に苦しんでいるのか。

自分の迷いに苦しんでいる。自分の脆さに苦しんでいる。

どこかで幸せになりきれない。そんな自分が嫌になり、そのせいで自分の現実の幸に歯止めをかけている。

 

 

 

いろんな人と喋ってみて、最近気づいた私のたぶんよくないところ。それは社交的すぎること。

人と喋る時の自分は、自分を一歩離れたところから見てて、自分のことを話すことがあっても、すごく客観的に話している。だから、私は人と喋る時はすごくサッパリとした態度なのだ。悩みを話す時も、普通のなにげない会話においても。

 

これはなんでなのかというと、うーん何で何だろう。よくわからない。いい子を演じすぎなのかな。主観的な態度は人に迷惑をかけそうで怖いからかな。

 

とにかく、完全に自分の心の素の状態を曝け出す技術があまりにもない。表現力が欠如している。

だからtwitterで文章上で爆発させるんですが、ああいう態度を私は現実で、人と目を合わせた時に、取れない。

(いや、でも元恋人に対してはかなりぶちまけてたし、そのせいで振られたんですが…だって向こうが頼っていいよとか言うからさ…それもたぶん優しさから出た嘘で、本心じゃなかったんでしょう)

 

現実での態度や言動が社交的すぎるから、たぶん苦しくなる。自分の本来の姿が、主観が、完全に一人で置いてけぼりなのだ。ほんとのたんちゃんは外に出たことが、実はほとんど無いんじゃないのか。あの子はたぶん小学校の頃からずっと、引きこもっている。

 

そんなたんちゃんが、唯一顔を少しだけ出せるのが、文章なのだ。twitterとかこのブログとか。

自分を完全に解放できるのが文章だけなのがよくない。とさっき書こうと思ったけど、文章で解放できてるだけ全然マシなのかもしれないね。

 

けど本当はもっと広い世界に飛び出してみたいよね、たんちゃん。おっきな公園みたいなこの世界で、遊んでいたいよね、たんちゃん。

怖がらないで出ておいでよ。受け入れてくれない人もいるけどさ、たぶん大丈夫だよ。

 

この世界で、歌って踊ろう。

文章やただの言葉では、人に与えるものが重たすぎるかもしれない。それで離れていく人がいて、悲しいから嫌だ…(こういうのもよくない?)

音楽なら、軽やかに存在できるのでは?と思う。

リズムの波に乗って仕舞えば、軽やかに障壁を乗り越え、この世界に漂っていられる。

私の好きなSam Gendelみたいにまではまだならなくてもいい。神聖かまってちゃんとかヤプーズみたいに、自分を救うように、私の中の私を外に連れ出していきたい。

 

まだ言葉ばっかりだから、、本当に言葉ばっか。口ではなんとでも言えるというやつ。

覚悟があるなら、どんどんやっていかなくちゃいけない。前に突き進むのだ。

 

昨日GarageBandで遊んでたけど、色々迷っちゃってよくないね。最初はウォームアップだと思って、とにかく適当にならしながら行こう。

 

今度友だちが使ってない機材とかくれる。わーい!嬉しい。がんばる。