日々の恨みつらみと発見と日常のめも

終わりの始まり

いつまで寂しさを抱えて生きていく悦に浸れば私の心は満足するんだろう。

本当に健康的なところを目指すなら、Sam Gendelとか、山本精一の曲のようなニュートラルなところに落ち着いていきたいというのは分かっているんだけど。

3年ぐらいかけてようやく少しは近づいて来れたかなと思ってたけど、やっぱり中々20年近く生きてきた思考の癖は抜けないもので。

恋人に寂しさを埋めてほしくて、自分の不幸を見せつけるような言動と態度を取ってしまうし。

なんで寂しいとか、構ってほしいとか、甘えたいとかなってしまうのかなって考えると、自分の不幸とか弱いところを引き出して見せつけることで、楽して他人の気を引いて自分を見てもらうためなのだ。

そしたら自分の弱いとこそのまんまにして、みんなに認めてもらえて幸せになれるって思ってるから。

そんなことしないでさ、自分の幸せは自分で切り拓かなくちゃならんのだ。

自分の手で勝手に幸せになっていくのが健康的なやり方だよ。自分と上手に向き合って。

あんまり他人に自分の幸せ頼ってると、人の人生振り回し続けて、周りの人は離れていく一方なのだ。

不幸で可哀想な自分じゃなくて、最高に幸せで誇らしい自分を築きながら、幸せになっていきたい。

もっと軽やかに生きていいんだよ。もっと爽やかに。もっと自分の欲望に素直になっていい。

自分の欲望に全面の信頼を置いて、都合よく、適当に、勝手に幸せになっていきたい。

YAPOOSのNot Dead Luna聴いてると、あーそうだよなぁって前を向ける。

どうせ一々悲しくなってたって死ねないんだし、どうにかここで生きていくしかないんだから、だったら踠きながら最高の場所目指して、自分の道を見つけて行こうね。